所感
細い路地を通るといつもは陰気な公園が壊されている最中で、別にどうとも思うわけではない公園なのだけど、なんだか寂しい気持ちになる。
毎日何かがなくなる。3年前ダウンロードした授業のpdfを捨てることも、酷い言葉を浴びせて恋人を失うこと、駅のホームの嘔吐物が片付けられていること。毎日たくさんのものがなくなる。
失うものに意識するだけの価値が在る時、僕は感傷的になる。
失うものを意識せざるを得ない時もまた、僕は感傷的になる。
街中で歩いてるだけでも見つけてしまうのだから、最近はいちいち感傷的になってしまって忙しない。いや、感傷的になりたいのかもしれない。
僕自身が可哀想な人間にみられたくて感傷的になっているのかもしれない。
大切なものを失うときもまた、僕は、感傷的になれるのだろうか。
僕に大切なものはあっただろうか。
大切なものがなくなってしまうことを恐れて、大切なものを作っていないような気がする。僕は、いつも、恐れている。
隠れるように生きて、逃げるように生きて、見ないように生きてきた。
僕は自分自身の人生の主役で居られるのだろうか。いつお役御免になってしまうのだろう。そもそも主役だったのかもなんだかわからない。
周りとは違う人間でいたいと、いつも甘えてきた。他人とは違う人生を歩めば、楽に生きれるから。僕は努力をしなかった。
中学時代に、高校時代に、大学時代に過ごしてきた日々は本当に好きだったのかな。
あの時知ったカルチャーは好きだったのかな。あの時聴いたSaToAは好きだったのかな。
僕が過ごした日々は本物だったのか。
いつも不安になる。
こうやってネガティブなことをアウトプットして可哀想で惨めな自分を作る。大丈夫?という言葉を待つ。えー!大丈夫だよ!!ありがとう〜って返す。天邪鬼で我儘で八方美人。自分が可愛いだけみたいだ。
僕は自身のことをとても忌み嫌うし、とても大事にも思う。
結局はそうやって肯定と否定を繰り返してふらふらと生きていくしかないわけだ。
ぐだぐだ書いても別に何か変わるわけでもない。なくなるものはなくなっていくし、生まれるものは生まれていく。何かが変わるわけではないのだ。
4月には僕は学生ではなくなる。
ちょっとだけ寂しい。寂しいと思うだけ、やっぱりこれまで過ごした時間は本物みたい。
卒業が決まって、毎日遊ぶわけでもなく、家でぼーっとしている。お金がないのが大半の理由だけど、学生を感じるにはこれが一番なのだろうという考えが元だ。なにをするわけでもなく、なんとなく何かを考えて、なんとなくご飯を食べて、なんとなくスマホをいじって、なんとなく寝る。僕の学生のすべてはこれだったと改めて感じる。
最後にこの幸福を感じておさらばなわけだ。
東京にきてもう5年経つ。
くるりの東京を聴きながら山形から新幹線で上京して、西荻窪の寮へはいってからもう5年も経った。
東京はいつでも包んでくれるような虚構で、僕はとても安心した。どれだけ消えかかっていても東京の夜はいつも照らしてくれる。地元より星は見えなかったけど、それでも目に悪そうなネオン街の方が安心したのだ。
嘘でもいいから何かにすがりたかったから、僕は、人が蟻んこのように入り乱れるこの街が好きだ。
東京でこれからも生きていく。
すがる何かに守られてこれからも。